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【車両図鑑】客車

実車では、客車はそのほとんどが姿を消して一部のイベント用として残る程度となりましたが、当鉄道では逆に動力集中方式が主流となり、電車・気動車よりも客車の方が増備が進んでいます。

保有する客車のほとんどが車両がKATO製で、2年前ぐらいからカプラー換装(脱アーノルドカプラー化)と室内灯の装備を順次進めています。

スハ43系

概要

スハ43系は、1951年に製造が開始されたスハ43及びこれに類する完全切妻型の車体を持つ、軽量客車の量産までの間に新製された客車で、国鉄の正式な系列名称ではない趣味的・便宜的な名称です。

本グループはオハ35系の改良版ですが、鋼体化客車の60系同様に完全切妻型車体が採用されたことから、客室とデッキの有効面積が広がり、座席間隔も従来の客車よりも若干拡大した他、緩急車では従来出入り台と客室の間に設けられていた車掌室の位置が車站部に変更されました。

台車は新型のTR47が採用されましたが、一部で従来車からの流用品を改造したTR23Fなどを履いた車両もありました。

60系客車

概要(木造車からの鋼体化改造車)

60系客車は、大正時代から使用され老朽化が問題となっていた木造客車を置き換えるため、既存の客車の「鋼体化」改造により登場した客車で、戦争末期から終戦後にかけての混乱期となる1949年から1950年までの間に約3,500両が増備されました。

鋼体化」改造では、既存の客車のうち17m級の台枠を流用し、中型客車の台枠を部材として組み合わせて20m級に延長し、鋼製車体のみを新製してこれに載せる形となりました。

台枠のみでなく、台車・自動連結器・自動空気ブレーキ機器なども木造客車から流用されました。

「鋼体化」客車を大量増備した背景

当時の全国のローカル線等では、大正時代に製造された車歴20年以上の老朽化した木造客車が使用され、その多くは戦時中・戦後の酷使や資材難などにより車内外とも荒廃した状態でした。

特に1947年に八高線東飯能~高麗川間で発生した脱線転覆事故では脆弱な構造の木造客車の安全性が非常に問題となり、これらの鋼製客車への置き換えが緊急課題となっていました。

しかしながら、当時進駐軍の民間輸送局が戦後混乱期のインフレ対策の一環として1949年度と1950年度の客車の製造を禁止、財政難や資材不足の点からも鋼製客車を大量に新製することも不可能であったため、こうした「鋼体化」客車の導入が選択されました。

60系基本型

このうち初期のグループ(オハ60系)は、側面の窓枠が700mm・座席2区画で窓が3枚という木造客車時代と同じ窓割となりました。

一方、1950年以降に登場した鋼体化客車では側面の窓枠がスハ43系同様に1m幅になるなどの仕様変更が行われ、このうち本州以南向けのグループがオハ61系・北海道向けがオハ62系とされました。

オハ61系の外観はスハ43系と似ていますが、座席数が43系よりも狭く配置されているため側面窓は1組多く配置されています。

台車は改造前のタネ車からの流用でTR11形がそのまま使用されました。

10系

概要

10系客車は国鉄で初の軽量構造が採用された客車で、1955年に試作車が登場、翌1956年から量産化が開始されました。

通常の(3等)座席車の他、2等(グリーン)座席車や寝台車・食堂車なども導入され、優等列車での多く使用されました。

50系

概要

50系客車は、地方に残る老朽化した旧型客車の置き換え用として1977年に登場した国鉄最後の新製された一般型客車で、約5年間でオハ50が335両、オハフ50が488両製造され、1979年には北海道向けのオハ51・オハフ51も登場し、それぞれ62両・68両が増備されました。

また郵便車の置き換え用として、50系ベースのマニ50やスユニ50(旧車の車体更新車)も登場しました。

50系客車(郵便車を除く)は交流電機機関車やディーゼル機関車の色に近い赤2号で塗装され、「レッド・トレイン」とも呼ばれていました。

Nゲージでは、TOMIXの旧製品を所有していますが、カプラー交換・室内灯装備などはまだ行っておりません。(そのうち公開します)

12系

概要

12系客車は臨時列車・団体列車を含む波動輸送用として導入された急行形座席客車で、1968年から1978年までの間に603両が導入されました。

車体は既存車よりも長い全長21.3mとされ、全車冷房車で屋根上に分散式のAU13A型が5又は6基搭載されました。

これらを含む電力はスハフ12の床下に設けられ、量産車ではスハフ12自車を含む6両まで給電が可能となりました。

14系

概要

14系といっても、自分が所有しているのは1983年に14系座席車の改造での登場した「サロンエクスプレス東京」です。

1号車・7号車の一部はフリースペースの展望を設置し、1号車には5・6人用の個室、2~6号車には6人用個室、7号車にはラウンジとビッフェが設けられ、「サロンエクスプレス踊り子」なども運行されました。

24系

概要

1972年に発生した北陸トンネル列車火災事故の対策から、発電用ディーゼルエンジンを客室の床下に装備する分散電源方式が問題視され、20系の後継としれ同年にデビューした14系は僅か2年で製造が打ち切られ、以降の増備車では再び20系同様の電源車方式が採用されることとなりました。

こうして登場したのが1973年に登場したのが24系客車で、翌1974年には従来の3段寝台から2段寝台に変更し居住性を向上させた24系25形が登場しました。

このうち、自分が所有しているのは1976年に登場した改良型の100番台で、国鉄時代寝台特急「富士」で運用されていた編成を再現したKATOの2022年ロットです。

予算と、レイアウト入線の制限の関係から、基本編成7両のみの導入です。